富野道
 
インタビュー構成:氷川竜介、藤津亮太 収録日2001.10.22
──今回、後半の編集がすごくスリリングに感じました。「あっ、ここがこうなるんだ」というようなつなぎ方で……。
富野 後半の「月光蝶」に持ち込むまでは、本当に死ぬほど辛かったです。後半の冒頭を思いつけなかったら、絶対にできないって放り投げていました。だけど、映画だからこれをやればいいんだってわかったときに、映画っていうのは便利だと思いましたね。

 終盤は、テレビ版のラスト3話の時点で完全に映画の構成を意識して取り入れてましたから、実を言うとある意味では楽でした。結局、最後の5〜60分に持ち込むまでの頭3時間ぐらいが大変で、特に『地球光』は本当に凄まじい仕事をやっているんだけれども、知らない人が見たら、当たり前に見えるように作りました。物語を組み立てることができる人が、中身はこうだって何をしたか聞いたら、卒倒しますよ。でも、それは作品のテーマとか評価とはまったく関係ないことだから、苦労がなんにも見えないフィルムで本当にイヤですね(笑)。オール新作よりも大変でしたから。

 たとえば、誰も気づいてくれないから自分で言うんですが、ナレーションが一切入っていないんですよ。ほとんどのフィルムはテレビ版だから、セリフの量を変えられないのに、ナレーションを使わずに全部話を通そうと、言葉を死ぬ思いで変えているんだけど、極力自然にしようとしているので、気がつかないということなんでしょうね。映画って、これができるんですよ。

──ハリウッド映画でも肝心な設定や展開をナレーションで語ったりしますが、あれはもう20世紀の遺物だと、最近の映画で思うようになりましたね。
富野 ある種21世紀的なのかもしれない『∀』を、みんなが理解できるかどうか、それはわからないし、そこまで降りていって啓蒙するものがナレーションなのかも知れませんが、いまの形を共通感覚として面白いと思って欲しいですよね。もちろん理解した上で、つまらないという人がいても、それはそれで良いとは思うんですが。

 そういう部分で言うと、今回の作業で一番教えられたのは、キエルさんとディアナさんが洋服を着替えるシーンです。あそこはテレビ版でも、それほど絵がひどくはないところなんですが、全部作画しなおしています。理由はそれほど論理的ではなくて、「あそこだけはね」という程度のことだったんです。ところが編集段階で、「なんだ、この映画はここが第1回目のクライマックスじゃないか」と気がつきました。そういうものを、本当に見逃さないで良かったと思いました。

 着せ替えなんて、SF的でもロボットもの的でもなくて、ひょっとしたらアニメ的ですらないんですよ。しかも絵で見せなくても、わからせようと思ったら言葉だけで説明できるわけです。だけど「そうか、映画って、やっぱりこういうものが必要なんだ」と思い知らされました。実を言うと口では「映画は肌の触れ合いだし、皮膚感覚がなくちゃいけない」と前から言っていたんですが、頭の中で結びつかなかったら、テンポが悪いって全部切ってたかもしれません。それが「この映画全編に渡って、ここが一番のキモだぞ」っていうのを改めてわかったとき、自分でゾッとしたと同時に、「映画ってすごく気持ちいいよね」と納得しました(笑)。

──今、突如思いついたんですが、『地球光』は「着替えの映画」かもしれませんね。ロランも着替えて、最後にソシエが着替えて終わる映画ですし。
富野 本当にそう思います。実を言うと、編集段階ではロランの貴婦人シーンもはずそうと検討しましたが、はずせませんでした。単に「とりかえばや」で始めたことでしたが、それはどうしても抜き差しならないぐらい大きなものとしてフィルム上に残ってしまったんです。結局、最後の締めもソシエのウェディングドレスでしたよね。これは計算ではないんですよ。

 つまり、ファッションを着替えるということも、自分の悟性のあり方を変えていくころにつながるわけです。自分の心のありよう、エゴともうひとつのエゴを重ね合わせることですよね。自分の趣味、自分の好みだと思っていることも、単純に思い込みでやっていることかもしれませんし、本当に自分の心の状態、心性にとって、正しいのか正しくないのかという問題は、かなり大きいと思います。

 『∀ガンダム』は、こういったことも埋め込まれた映画として楽しんで欲しいですね。

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このコラムは劇場版∀ガンダムwebに掲載されたものです。


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