富野道
氷川竜介、藤津亮太 収録日2001.10.22
──今回『∀』でも数千年単位の時間が描かれていて、それもある意味で「だいたいで、いい」という考え方に似ていますね。
富野 やはり単年度売上的な視点が、人間をかなり痛めつけたっていう気がしていますね。現に僕について言えば、そういう風に思って許容した方が、自分だけ納得して悦に入って安心するよりも、次の仕事が手に入るだろうと思うようになりました。仏教で言う「他力本願」の心は、きっとそういうところだと思います。次の作品も『∀』のコンセプトにきわめて近いんですが、まあ、これはしようがない、時代がさせていることでもあるんじゃないかなと思うようになりました。

──『∀』を通じて世の中の動きもリアルになったことがある、というお話でしたよね。そこを新たな出発点にして始めると、またそれは違ったものになるんじゃないでしょうか。
富野 その確信だけは間違いなくあります。その上で、本当にネクストに行けるのかどうかはわかりませんが、手順としてはそれほど悪くないと思っていますから、その上で、もっと違ったところに行ってみたいものです。そして、日本人の話をやりたい、という気持ちが今あります。それは、ここで話していることと逆行しているとは思いません。ナショナリティというローカルな積み上げがワールドワイドになると考えれば、ローカルなものを大事にしていいんじゃないかと思うからです。ただ、それで自閉しないようにはしたいですね。ユナイテッド・ステイツの建国理念と同じように、多様なものをひとつのものにするベースとしての、個々の立ち居ざまを見つめていくような、そういう作品をつくってみたい、ということです。それを判りやすくつくれたらいいな、と思いますね。死ぬまでに……こんな話をすると、いつ死ぬんだよ、って気もしてきたな。

──まったくですね(笑)。
富野 でも、老醜には気をつけたいですね。悔しいけど歳のことだけは意識せざるを得なくなりました。「老後は楽しい」なんて映画は絶対につくりたくない、という気持ちもある一方、もうひとつ気をつけなければいけないことがあります。それは、たとえばエロスを前面に出して、「この歳でもこういう映画が撮れるんだぞ」とアピールしたりしてはいけないということですね。それでは老醜の悪あがきを見せることですから。映画はエンターテインメントですから、みんなでスルッと観れなければいけません。

 ここで旧大陸の話につながるんですが、クラシックやっている方が無難なヨーロッパには、アメリカとちょっと違った前衛なる芸術観があるんですが、どうしてこうも突出して病理的なものを「アート」と言おうとしているかという、抵抗感があるんです。これも老醜に関わってくることです。それでは保守が引きずっている過去論にぴったりとくっついたものになってしまっていると思うからです。アーティストの病的カルテみたいな作品を見せられたって、それは楽しくないでしょ?

 どうして、過去にあるものを学習してきちんと咀嚼した上で「だけど今はね……」というところに話を持ってこないんだろうかって思います。人間の本能的で病理的なところについては、鈍感かもしれないけど、実はみんな判っているんですよ。判っているからこそみんな我慢して一所懸命暮らしているときに、なんでおまえだけが世界一不幸みたいな顔して芸術家ぶってるんだ、冗談じゃないって思うからです。

 その辺の気分もあるから、僕の場合は映像は芸能であっていい、というところに落ち着きつつあるし、それ以上でも以下でもあっても絶対にいけないし、それが百万人にアピールできる自己メッセージなんじゃないのかと思うようになりました。

 そうは言っても、これだけ人口が増えて、年寄りの物量が多くなって人の死の物量が多くなっていったときの認識と表現の問題は、新たに考えなければいけない時代に来ている、というのが、今日のまとめです。いきなりまとめました(笑)。

──どうも、ありがとうございました。また日を改めてうかがいに来ます。


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このコラムは劇場版∀ガンダムwebに掲載されたものです。


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