富野道
インタビュー構成:氷川竜介 収録日2001.12.19
──キースが結婚に至ったということでは、『∀と恋愛』というお話についてもうかがいたいのですが……。
富野 僕は「恋愛」というそれだけを取り出して、妙に貴重なもののように語るということが大嫌いなんです。「恋愛結婚」という言葉も、頭だけで考えたもので成立しないと思っているくらいです。「不倫」という言葉も大嫌いです。現にそういう男女の関係があるときに、「不」というものがつく言葉はおかしいと思いませんか?

 人間がつくる社会があって、その中に男と女が暮らしていれば、恋愛も不倫もなくて、男と女がいればくっつく……それだけの話なんです。

──恋愛について否定的ということでしょうか?
富野 いえ、男女の愛情関係はもちろん認めます。しかし、みなさんがいま考えているような言葉で男女のことを語るのは、誤解が多くなるということですね。

 「性愛」ということであれば、お話はできます。これについても話は単純です。

 病気でなくて健康な身体を持っている男と女がいて、両方がなんとなく好ましいと思ったり、シチュエーション的に「いい」と両方で思ったら、それはセックスするでしょう……それだけのことです。

 現代の性愛は、かなりいびつなんです。日本民族も、江戸時代までは性愛に対してかなり大らかだったことがわかっています。それで風俗が乱れたかというと、そんなに乱れませんでした。もともと人間というのは助平な動物だから、共同体が崩れてしまうような関係はいけないと個人個人が思っていたし、いまみたいにコンビニがあるわけではないから、共同体が崩れたら終わりだという社会の規範がしっかりしていて、そんなに簡単に手出しをしてはいけないと思っていたんでしょう。そうでない限り、結婚前の男女が結ばれること含めて、かなり容認されていたはずです。

──お祭りと性愛の関係もあったようですね。
富野 セックスが忌み嫌われるということがなかったから、当然でしょう。お祭りがその部分含めてガス抜きになるという構造も、社会的にちゃんと持っていたんです。もともと宗教にしても、みんなが生き残るための知恵でしたから、素朴な社会構造であればあるだけ、神聖な行為の中にセクシャルな行為が一体化されていたと思います。今年も豊饒なものが取れてめでたいという祭りのときに、男女が集まって気持ちの良いことをしなかったら、おかしいですよ(笑)。

 神事もお祭りも、「私たちが気持ち良くして晴れやかにしていると、神様も喜んでくれるだろう」ということで、もともとかなり性愛と近かったということです。

──今は宗教というと、聖なるものということで性愛のイメージはありませんが……。
富野 最初は寺院や教会の回りに色街ができたということも、世界共通にあります。一見聖域と思われるところでも、そういう部分を持っているのですが、宗教が権威を持ち始めたり、それに対抗する統制政治が始まる中で、やっぱり中途半端に頭のいい人たちによって、性愛と絡んでいた部分が切り離されて忘れられていったのでしょう。

 現代の世の中でも、まず男として女として人間らしく生きていこうとしたときには、なんていうか……お好きにやったらいかがじゃないですか、としか言えませんね(笑)。

 ぼくの恋愛論のベースにあるのは、こういう考え方なんです。

──富野監督のその恋愛観と『∀』の関係について、もう少しうかがえますか?
富野 『∀』については、こういった考え方が基礎にあった上で、男と女を動かしています。ですから、ロランもメシェーも、そのお父さんもヤーニも、一夫一婦制を堅持している人はいません。それはすごく意識しました。

 だけど、ミハエル大佐についていえば、奥さんをとっても愛しているからこそああいう人なんだろうし、彼は浮気は絶対にしないだろうと思います。そういう折り目正しさも、すごく意識して描いたことです。

 そういうことが、『∀』に登場する人たちの闊達さにつながっていると思うんです。

 「なんとかちゃんが好きになったー!」って口に出して言っちゃうとこから始まったり、中途半端に性愛的なことを記号的表現として入れているアニメがあります。そういうものから、男女観を「情報」として手に入れている子たちに対して、「いや、人間関係ってもうちょっとふっくらしたものでしょ」ということを言いたくて、男と女のことは本当に気をつけて描きました。

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このコラムは劇場版∀ガンダムwebに掲載されたものです。


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